「今」を使えば、自分を客観視できるはずだ
はい、それはつまり、今の自分しか、自分でしかなくて、1秒でも過ぎた、過去の自分は、自分ではないと、理論上はそう言えます。なので、他人が起こした行動には、親族だったら責任が取れるかもしれませんが、だいたいの、他人の場合、無理ですよね?だから、責任を取っているのではなく、我々は、取らされているのかと思いました。しかし、それでは、あまりにも自分と言う存在がいなさすぎて、社会にすら、自分はいないのかという疑問が出てしまいます。なので、自分とは、今までの経験の総合値で、あの日とは、確かに自分だった、人生経験が劣っているだけの、印象深い時の私の事だと考えました。し、そう考えることで、自分を持てると思いました。
もう一度やってみるという、行動原理と成功体験
はい、脳に焼き付いているのは、大体のところ、成功体験か、ショックを覚えておく為の失敗体験です。それ自体が行動理念に結びついていると考えました。なので、やる気とは、決して、無から何かを生み出す為の気合のことだけではなく、大体の所、昔やったことの応用に過ぎないと考えました。じゃあ、やる気がある人は、過去を見ているからやる気が起きるのかと聞かれれば、それもおかしいと感じます。あの日の出来事とは、今日が無ければ、現象として語れないほどの、不安定さを持っています。そこに実像を作るのは、形状記憶でもなんでもなくて、今行動することだと思いました。
昔を観るのは、女々しいと言われるかもれないが…
はい、昔にこだわった場合を、そういうのであって、昔を、今を豊かにする参考文献として使うのには、何ら問題ないと思いました。それに、今があるのも、その、女々しいと言われる。昔の集合体のおかげなのです。「あの日」まで、過去を具体的にさかのぼっている時点で、それに関しては、昔ではなく、「今の価値観で測った昔の集合体」に変わりますので、無理せず過去を振り返っても、それ自体が、非難される要素は、ないと思いました。
じゃあ、女々しくないからバンバン昔にこだわっていけ?
いえ、そうではなく、こだわりと、向き合いは、それこそ違う概念で、こだわりは、自分と相手を混合する考え方。向き合いは、自分と言う、軸を持った上で、折り合いをつけるときの考え方と言う違いが存在すると思いました。俺は、この思考法になってから、過去を振り返ることに、恥じらいを持つことなく、寧ろ、今を尊重できているんだとポジティブに考えられています。